読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウズマキさんちのレシピ

東京府中市の猫まみれセラピスト。緩めること癒すこと。

音にのせた感情の到達点

つれづれ

2017年が始まりましたね。今年もよろしくお願いいたします。昨年はてなブログにお引越しして以来、ブログのアクセス数は笑ってしまうような数字が続いているのですが、むしろこっちが本来の数なんだろうなあと、かつてのアメブロの思いやり?励まし込みの増し増し解析を懐かしく思っています。相変わらずのペースで更新しますが、より多くの人に届けたい気持ちを昨年よりもむき出しにして取り組みます。

 

 

f:id:uzumakiaroma:20170106151453j:plain

 

さて。いきなり昨年の話からで申し訳ないのですが、一年の終わりに素晴らしい映画に会った!と大感動したのをまずお伝えしたいと思います。

『シーモアさんと、大人のための人生入門』シーモア・バーンスタインという89歳のピアニスト・現役のピアノ教師を追ったドキュメンタリー映画でした。

 

 

www.youtube.com

 

 

予告を見ると、人生に役立ちそうなありがたいお言葉を次々と押しつけられる映画かな・・・なんて構えていましたが、中身は彼のレッスン風景とピアノ演奏、そして彼の笑顔がいっぱい。もし日本語訳がなかったとしても十分伝わる内容でした。

 

 

 

音に人の感情や愛情が込められている

 

 

 

人の能力には様々なものがあります。身体能力とか学力とか他と比べて数値化できるものもあれば、観察力とかコミュ力とか人とのかかわりの中で特化していると認められるようなものも。例えば人の話の内容とは別に、声の調子からその人の状態を感じ取ることができる、そんな能力を自覚していますか?どこどこに行って楽しかった、誰と会った何をした、そんな一見楽しそうな報告を聞きながらも、どこか触れてほしくないような自分でも見たくないような、部屋の隅っこの薄暗い部分のようなものがその人の声から見え隠れするみたいな。『音』の調子から人って何かを感じ取ることができるのです。

 

 

 

ピアニストが自分でピアノを選び(ピアノは一台一台音色が違います)、曲を決め演奏する。そこに込められた感情や愛情や悲しみや・・・ひと言でまとめてしまえばその人の人生をくるっとまとめて体にのせ音を奏でる。作曲した人間の思いを楽譜から読み取って、それを自身の体を介して表現する。アーティストとかパフォーマーといった人というのは、その人の個性をいかに形にするかが目指すところなのかと漠然と思っていたところがありましたけど、この映画を見ながら思ったのは、

 

 

 

個人の能力(体格とか性格とか得手不得手とか生きてきた経過とかとかとか。ざっくりでごめんなさい)を最大限に生かしたときにすっごくシンプルなところにたどり着く。それはどんな人にも共通する「感動」とか「喜び」といった言葉で表現できるような類の感情をもってあらわせる。そして美しさを伴う。

 

 

 

っていうこと。ある人はテクニカルな表現をするかもしれない。ある人はリリカルな表現をするかもしれない。同じものでも表現者の体を最大に生かせる状態で表現されたときには、同じ結果にたどり着くのかな、と。

 

 

 

シーモア・バーンスタインの演奏を聞けばわかるよ♪と言いたいところですが、この映画のパンフレットから、ピアニストの大木裕子さんのコラムの一部を引用します。

 

 

それは、音楽そのものの探求と同時に、その音楽を演奏するのはあくまでも人間であることから、この人間という複雑な生物ーー性格も能力も傾向も肉体的条件も すべてが人によって違い、複雑に様々に配合されている一人の人間ーーが、一つの作品を表現、再現するためには、一人の人間の中の様々な要素が互いにうまく機能しあって統合されなければならず、それらの統合が成されたとき初めて演奏という行為がその人のものとなる、という信念に基づいてティーチングされているように思えることである。

 

 

ああ、わかりやすい(*´ω`*)

 

 

 

誰かとても幸せそうに生きている人を見て、羨ましいな私もあの人のようになりたいなと思ったときに、ただ表面的に「真似っこ」しても意味がないのは、引用した文章でいうならば、私たちひとりひとりが『性格も能力も傾向も肉体的条件も すべてが人によって違い、複雑に様々に配合されている』ために、到達方法がその誰かとは違うからなんだね。

 

 

 

単純な私が「この人すげえ!」というひと言で済ませてきた感動の中身を少しだけ言葉にして整理できた、そんなきっかけをくれた映画でした(*´ω`*)

 

目標はいらない

つれづれ

大みそかですね。2016年は皆さんにとってどんな年でしたか?一年を振り返って次の年にどうつなげていこうか、ゆっくりと思いを巡らせたくなる時間ですね。



今年は目標をあえて持たずにやってきました。目標がないとどうなるかというと、まず余計な力が抜けるのですね。これをしなくちゃ私ではない!という脅迫がなくなった分、力が抜けて過ごしやすくなりました。それまでは「今年は○○の資格を取る!」とか「空き時間は全て仕事に充てる!」とか、いまから思うとかなり禁欲的な目標をたてていました。
禁欲的な目標?なんだか変だなと思った方もいると思います。目標ってよくとか前向きな思いを形にするもの、そういうイメージですよね。実際に目標をたてずに一年間過ごしてみて感じたのは、少なくとも私がたててきたそれまでの目標というのは



逃げ口上



のようなものだったようです。目標という名の安全圏を設けて、目標のために努力しているから大丈夫、目標があるんだから周りに迷惑かけても仕方がない、こんな感じで目標そのものを利用して甘んじていたようです。勝手にガイドラインを作って、その中であれはしていいこれはダメだと制限をかけていたし、うまくいかない理由を目標のせいにしていました。



目標がない生活というのは目標を言い訳にした判断ができないので、その場その場で自分に最善を問いながら判断していくほかなくて。逃げられなくなった分とても鍛えられました。同時に余計な力が抜けた(自分に制限をかけなくなった)ことで、身体の感覚があきらかに繊細になりました。クレイテラピーで使うクレイの働きを細かく感じ取れるようになってきたし、レイキヒーリングの際のひびきの感知にもかなりのバリエーションが出てきました。



なのでね、目標を私のように逃げるための言い訳にしようとしている、そんな心当たりがある人は、思い切って目標をたてずに過ごしてみてください。ただ『そのときそのときの私にとって最善を尽くす』これをひたすら毎日続けるだけ。判断基準を自分に持って来ざるを得なくなるので、自分ってこんなことがしたかったんだー!など面白い発見があります。



ぴょこっと地面から伸びた双葉に向かって、「あなたはこれからまっすぐ天に向かって伸びてね(そのほうがカッコいいし効率がいいから)」と目標を与えると、そのための努力をするかもしれないし天に向かって伸びるための情報アンテナが発達してくるということもあるだろうけど、その反面天に向かって伸びる以外の可能性を閉じてしまったり、天に向かって伸びるためだからという言い訳をそれと関係ない場所で使い始めることもある。私の場合は自分に与えた目標自体が「そのほうが効率がいいから、みんなのためになるから」といった自分を基準にしていないものばかりだったので、自分との矛盾が起こっていたわけです。まがって伸びるとか、広がりながら伸びるとかいう、そこに根を張った双葉なりの最善の可能性を無視していたってこと。



f:id:uzumakiaroma:20161231212705j:plain




冬至の頃の空の様子は見事でしたね。これから始まる長いドラマのオープニングのようでした。真っ暗な空を破るように光が差して、そこからキャスト全員が順に空いっぱいに出そろい、歌いながらそれぞれに自己紹介をしているような感じの空。プラネタリウムの夜空の星と星をつないで神話の登場人物が天いっぱいに映し出されたのを見たことがありますか?ちょうどあれの昼バージョンのように、あらゆる物事の象徴が光とともに天にぶわわーっと広がって「あたらしいお話が始まったよー!」と大騒ぎをしていました。




2016年には仕事や人間関係の面での「終わり」や「一区切り」といった何かの決着を見た人が多かったと思います。ここからは生まれ変わったかのように新しい発見や新しい生き方ができるようになります。自分の今までにとらわれず、惹かれるものや予感を大事にすることで自分にしっくりくる価値観や機能的で美しい体・それに連動した安定した心に近づくことができます。は?なにそれ?と感じた方にも施術や講習会等を通して伝えることを意識していきたい気持ちが満々なので(´ω`*)なんか気になると感じた人はぜひ一度会いに来てください。



さてー、年越しそばのリクエストが入っているので台所に立つとします。お客様として、また交流会やイベントの参加者としてお会いすることができたみなさんや、「ブログ読んでます」とメッセージをくださるまだお顔のわからないみなさんから、今年も素晴らしい経験をもらいました。心のそこからありがとうございますと今あらためて感謝しています。年々涙もろくなっていて、今もなんだか鼻水が出始めています(目からも鼻からも出るタイプ)。あたらしい年、あたらしいお話の中でまたあなたに会えますように。